2008年5月11日 (日)

080511「 アパートのリビングルームの床に現金を敷き詰める」

Simple









アパートの2LDKの部屋は、リビングダイニングル

ームが約8畳分ある。フローリングの床に丸いテーブ
ルと二つの椅子、そしてソファが一つ、コーナーにテ
レビという簡素な構成だ。

スポーツバッグで、ホテルから2往復して部屋に持ち
込んだ47000万円の札束は、50万円ずつに分ける
と、940個になる。使い古しの紙幣だが、新品と変わ
らない。続き番号ではない、というだけではないのか、

と高木は思いながら、100万円を半分に分けて、新聞
紙で簡単に巻き、セロテープで止めるという隠蔽工作
を必死で続けた。この作業で、朝から夜まで作業して、
3
日かかった。

畳一畳分で、50万円の札束が121個埋まるので8
だと、968個埋まる。できるだけ中央よりに敷き詰め、
端の空いたスペースには発砲スチロールのブロックを
カットして、すき間なく埋めた。その上に45センチ
四方の正方形のカーペットを敷き詰めて、何とか部屋
のイメージが落ち着いたのは、1027日から始めて、
5
日後の111日の土曜日になった。

札束の上に乗っているというイメージは、もちろん払
拭できないが、全体では1センチ弱床が上がっただけ
なので、視界はほとんど変わらない。

あのサムソナイトの旅行鞄を持っていないというだけ
で、なんとも言えない開放感にひたれた。中身は返し
ていないのに、むしろ本当の戦いはこれからかもしれ
ないのに…、ひととき心が寛いだ。

留守電を聞いてみたり、机の上のメモを繰ってみたり
する、そんないつもの行動にさえ心が安らぐ。

「ああ、もしもし高木さんですか、塩瀬です。事務所
から具合が悪うなったとお聞きしまして、お電話して
みました。無理せんといて下さい。お体壊したらなん
にもなりませんよって……。以前ちょっとお話しまし
たが、B-6棟の河合芳子さん、ここのところ、すっ
り落ち込んでいて元気がなかったんやけど、この間、
支援物資の抽選会で、カラオケセットを当てましてん。
他の部屋の人たちも呼んで、五人で歌いまくりました。
とても楽しくて、芳子さんも大喜び、みんなで三時間
も歌い続けましたよ……。もう、喉はがらがら……」

ボランティアで応援している仮設住宅住む塩瀬祥子か
らだった。聞きながら、パッと高木の頭に閃くものが
あったが、とりあえず夕飯を食べに、近くにあるいつ
もの喫茶店「三々亭」に行く。夜七時からはスナック
になる。

ママというより「おかみさん」という呼び名がぴった
りの芳賀朝子が、月三万円で夕食だけ飛び切りの料理
を作ってくれた。要らない時は、連絡することになっ
ていたのを、ここ数日間の緊張生活でうっかり忘れて
いた。

次から次へ手を打ち、気軽にやっているようだったが、
高木自身は、かなり気が張り詰めていたのかもしれな
い。大金入り旅行鞄の持ち逃げは、ゲームなんてそん
な生やさしいもんではないと、高木はつくづく思い知
った。

「やあ、ママ、しばらく……。といっても一週間振り
か。いろいろあったので、なんだか一週間以上も会っ
てないような気がするなあ……」

「ほんま、どうしてたん…?二日も連絡せずに顔見せ
んと。今日も来なかったらK2に捜索願い出そか、言
うてたんよ。あいにく今晩はあまり品数が多くできん
のよ。昨日もおとといも、腕によりかけて待っとった
のに……」

「いやあ、ごめんごめん。品数よりママのおふくろの
味が一番だよ。どうしても手が離せない野暮用に引っ
かかちゃってね。まったく連絡できなかったんだ……。
まだ継続中なんで、終わったらゆっくり説明するよ。
その代わり、ハイッ、これっ。ママが欲しいって言っ
てたローズピンクのバラ、百万本じゃなく三十本、マ
マの年齢分……。飾り終わったら、いい感じのドライ
フラワーになるってさ。花屋が言ってたよ」

「あら、おおきに……、ありがとう。でも、私の歳は
もっと上……、いやねえ、秋ちゃんは……。ふーん、
そんな高いもん奮発するいうんは、もしかすると誰か
いい人できたんと違う」

カウンターにいた中年の男が笑いながら振り返って、

「うーん、そう言えば、秋ちゃんはちょっとやつれた
みたいやね、恋患いかもしれんぞ。その若さで、男前
やから女の子が放っておかんやろ……」

この店の常連客の一人、写真館を経営する米田だった。
朝子のフアンで毎晩「三々亭」を訪れている。

「ああ、米田さん、こんばんは。いやあ……、米田さ
んも、そこまで言うかなあ。でも、一週間ここに顔を
見せないだけで、みんなからそんな風に思われるとは
夢にも考えなかったけど、ご心配いただいてうれし
いです。残念ながら、二人ともブーッですよ。あれ
から、まだ、三年足らずですから……、とても、そ
んなこと……。僕には考えられませんよ……」

高木が、震災で恋人を亡くしたこと、そのためにボ
ランティア活動を始めたこと…などをみんなが知っ
ていた。

「うーん、こんな沢山のバラもろたんは生まれて初
めてやわ、ごっつう嬉しい。死んだお父ちゃんもく
れんかった。ほんま、夢みたい……」

朝子は高木を横目に見やって、米田をちらっと睨ん
だ。バラの花束に顔をつけて、直ぐ持ち前の人懐っ
こい笑顔になり、元気よく大声を出した。

「さー、ハイ、ハイ。あり合わせで、びっくりする

ようなご馳走を作ります。まあ、見てなはれ」

久しぶりに、ご飯と味噌汁以外に五種類の「おふく
ろの味」を楽しんで、高木は心からの満腹感を味わ
った。バラのお礼で、ママの奢りだというビールを、
すすめられるままに三本も飲んでしまった。おまけ
に、米田と一緒にカラオも楽しんだ。震災以後では
初めてだ。

朝子も、高木が歌うのを初めて見たので、驚くと同
時に、やたらとはしゃいだ。米田と朝子、朝子と高
木で何度かデュエットを歌い、最後には、高木は米
田と組んでまでデュエットを歌う始末だった。米田
がカラオケ慣れしており、高木の高音に合わせて、
低音を歌う合わせ方の巧さに気持ちよく歌えたから

でもある。「三々亭」からの帰り道は、ほろ酔いの
に、晩秋を告げる冷たい風が快かった。

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2008年4月19日 (土)

080419「サムソナイトの尻尾をつかむ・・・」

 

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三宮
駅の近くにある喫茶店「菫」で、八枝は紺野と待ち
合わせた。紺野が電話で、それだけでも懸賞金の価値が
あると言ってくれたのが嬉しくて八枝はうきうきしてい
る。その喫茶店に、四十分も前から行って座っていた。

「やあ、松本さんですね、お待たせしました。車が混ん
でいて遅れまして…。お電話ありがとうございます。神
興開発本部の紺野という者です。よろしくお願いします。
わざわざお勤めをお休みしていただき、また遠路ご足労
いただきまして、本当にありがとうございます。これは、
ほんのお車代ですが、どうぞ、ご遠慮なく収めてくださ
い。どうぞ、どうぞ…」

紺野が差し出したのし袋を触ってみて、八枝はその分厚
さに受け取る手が震えた。(車代でこんなにくれはるな
んて……)
八枝は期待で胸がいっぱいになった。紺野
が頻りにしまうようすすめるので、慌ててハンドバッグ
に入れたが、それだけでも胸がどきどきしている。中身
を見たくてしょうがない。

 

紺野はその様子に気がつかない風を装って、
「それで…、早速ですが、ホテルから大きなサムソナイ
トを持った客を運んだタクシーの運転手は、どこの会社
のタクシーだったんですか。呼び出しの場合は、お宅の
ホテルの契約会社なんでしょうね」

「はい、うちといつも契約している海浜交通さんです。
運転手は飯田稔さんといいますねん…。サムソナイトの
お客さん、高井さんいうんですが、高井さんを乗っけて、
午前10時ごろ、すま駅ま
で行きはったそうです」

「ほう、10時にすま駅にねえ…、なるほど…、そのお客
さんの名前は高井いうんやね。下の名前もわかりますか」

「義夫です。こんな……字です」八枝はホテルのメモに
書いてきた高井紀彦の文字を紺野に見せる。

にこやかに話す紺野の顔を見ながら、八枝も思わずつら
れて微笑む。八枝は緊張がほぐれて少し余裕が出てきた。

(この人の笑顔は、何て可愛いんだろう。神興開発は、
神興組と
同じ会社って聞いていたけど、この紺野さんは
すごく感じがいいみたい…。それに、うちで考えていた
以上に、お車代までもらえるなんて…、これからどんな
ふうに話が進むんやろ…)

「ええ、高井いうお客さんは、三十歳くらいでしょうか、
背のすらりとした真面目そうな方で…、四角い黒の眼鏡
をかけてはりました。感じは…、明るそうなお人やった
と思いますけど、口数は少ない方でした」

「やっぱりねえ、眼鏡をかけてた…、うーん、そうか…。
で、その運転手さんは、お客さんをすま駅で降ろした…
と、いうんやね。でかい鞄を持っているのに最寄駅まで

しか行かなかったんや」

「ええ、海浜交通の、その飯田さんいう運転手さんは、
前から私とはよく口を聞いてましてん。飯田さんは、神
興さんが旅行鞄を捜していることを後で知りましたから、
その朝は、高井さんの鞄を見ても、鞄の色までは暗い色
や、いう程度にしかよう覚え
ていなかったんです。ただ
鞄がうんと大きいのに、軽そうに見えたんが、ちょっと
おかしいと思
った言うてました。今思えば、何か引っか
かるもんがあった、言いますねん」

「そりゃあ、そうやねえ…。まあ、旅行鞄の色なんて、
いちいち気にはし
ませんな…。だからこそ、松本さんの
ように、それでも電話をくれる人が、
われわれには凄く
ありがたいんですよ」


紺野はやや憂いを帯びた眼差しで、じっと八枝を見詰め
た。口元の微笑みは絶やさない。八枝は、嬉しさに顔を
紅潮させ、とにかくどんなことでもこの人には教えてあ
げようと固く決心する。進んでしゃべりだした…。

「はい、おおきに。そう言ってもらえると、ここへ来た
かいがあります。ええと…、木田さんが降りた後、その
飯田さんいうタク
シーの運転手さんは、ヒマだったせいもあって、ちょっ
と離れたとこに車を停めて、タバコを吸いながら、しば
らく見るともなく高井さんの様子を見てはったそうです。
そしたら…」

「そしたら…?」

「切符を買ってから、あの大きな鞄を、軽々と片手で持
って、改札を通り抜けて行ったそうです。あの鞄は、中
身は空っぽだと思うよ、
と言うてました」

「ふーん…、もう中身はどこかへ空けてしもうたんかい
な…。白昼、堂々とあのでかいのを持ち歩くんやから、
中身が詰まっていたらとても
できんこっちゃ。いやあ、
よくそこまで見届けていたもんやねえ。その運転手さん
にも、改めてお礼をしなきゃいかんなあ。まるで刑事や
ねえ…」

八枝は、急に真顔になった。自分に入る、とばかり思っ
ていた懸賞金が、海浜交通の運転手飯田の方へ行きそう
だ。
(余計なことをしゃべりすぎたかしら…。まずいこ
とをしてもうた。私って、どうもお金に縁がないんだ…)

と思ったが、もう遅い。がっかりしながら紺野の顔を恨
めしそうに見る。紺野は、その顔つきから八枝の思惑を
察して、直ぐとりなした。まだ聞きたいことがいっぱい
ある。ここで失望させたくない。

「ああっ、もちろん、松本さんにはきちんとお礼をはず
みますよ。それはもう、最優先ですよ。そもそも松本さ
んが電話をかけてこなければ、この話はなかったわけな
んやから当然でしょう」


八枝はまた、ぱっと顔を明るくする。自分でも現金なも
のと思う
が仕方がない。(肇のためやもの……)少し、
もったいをつけて、疑問に思っていたことを話してみる。

「はい、高井さんは、暗いブルーの鞄を持って出発され
ましたけど、前の日の夕方、夕刊をお持ちした時に、鞄
だけぽつんと窓の
側に立ててあったんです。その時…」

「ええ…?その時、どうしたんですか…?」

「高井さんのお部屋の中はコーヒーの香りがいっぱいで
したが、何となく…」

「な、なんとなく何なんですか…?」

「はい、お部屋に入って行ったら、コーヒーと一緒に、
ペンキの匂いがしたんです…。鞄のある窓側へ行った時、
特に強く感じたんで、もしかしたら、鞄の色を塗り直し
たのかも…。と後で思ったんです」

紺野は、八枝のカンが当たっている、と直感した。

「それは、凄い…!まるで探偵ですね。さすが主任さん
だ。観察力が半端じゃないなあ…。多分、その高井が持
ち逃げした奴に間違いないと思いますよ。まさにドンピ
シャですよ。これは賞金もんだ…!」

紺野は、お車代とは別の、さらに分厚い封筒を出して、
満面に笑みを浮かべて八枝の前に置いた。
「どうぞ、懸賞金150万円です。お受け取りください。
目の前にあの鞄があれば、倍の300万ですが、あの鞄があ
るのと同じくらい貴重な情報です。やあ、お会いして話
を聞かしてもらって本当によかった…」

八枝はずっしりと手ごたえのある封筒を押し戴くように
両手で挟み、買い物袋の底にしまった。夢をみているよ
うな気持ちで、
手の震えは止まらない。(もう、早くう
ちに帰りたい…!)

「あと、もう一つお聞きしていいですか…?高井さんの
会社名はホテルのカードに何て書いてあったんですか?」

「東京の八千代興産です。電話番号はこれです」

八枝はまた、メモを出す。ハンドバッグの中には、まだ
何枚かメモがありそうだ。紺野は、八枝との一連のやり
とりから収穫の大きさに内心でほくそえんだ。今までの
MDチームの仕事では、直接持ち逃げ犯そのものに結び
つく情報は取れていない。この松本は素顔の高井を見て
いる。後で、似顔絵にも協力してもらえそうだ。

高井という人物の行動パターンや、偽名の可能性が高い
が、名前、所属する会社名までわかるなんて、今までの
堂島・MDの誰も、本部長でさえ想像できないだろうと、
口笛を吹きたいような気分になる。

「あ、最後に…、この件は松本さんだけにしておいてく
ださいね。また、うちから懸賞金をもらったいうことは
他の人には絶対に言わんといてください。これは、神興
組の者にも内緒です。知れたら、今のお金を返して貰う
ことになるかもしれません。厳重にご注意願います」

「いやあ…、どうも、貴重な情報、本当にありがとうご
ざいました。また、何か思い出したら、いつでもこの名
刺の、僕宛てに連絡してください。それと…、もう一度
ご足労いただいて、高井の似顔を描くのを、お手伝いし
てもらうかもしれません。もちろん、その時はお車代を

差し上げます。どうぞよろしく」

「ええと…、僕は今の松本さんの話を、ここでもう少し
まとめてから帰ります。ここの払いは僕が済ませますか
ら、どうぞ松本さんはもう、お引き取りください。どう
ぞ、どうぞ…。ここで失礼します。それから、これは神
戸牛のステーキ肉が入っています。お荷物になって恐縮
ですが、どうぞお持ちください」

八枝は輝くような笑顔になって、買い物袋に腕を通し、
アイスボ
ックスに入った重たい神戸牛の袋を手にして素
早く立ち上がった。

鞄を見つけたわけではないのに、懸賞金が半分ももら
えたばかりか、さらに車代が上乗せになって、肇の大好
きなステーキ肉までもらっちゃった…!夢なら覚めない
内にうちに帰りたい。そうだ…、肇にパソコンのカタロ
グも持っていってあげよう…)思いがけない結果に、八
枝も、スキップを踏みたい気分だった。上機嫌で帰りの
電車に乗り込んだ。

 

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2008年2月26日 (火)

ホテル従業員にも、サムソナイト探しの動きが…!

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10月29日朝、須磨浦観光ホテルでは、フロント係の小西
は徹夜勤務を終えてホテル内にある従業員専用休憩室で
寝んだ。小西は、高木が、24日深夜、サムソナイトを持
ち込んだ夜のフロント係だった。

神興組からの手配書をカラーコピーしたものは、9時から
出勤したルームメイク担当主任、松本八枝や、八枝の今
日のパートナー、坂口夏代らホテル従業員全員に回覧さ
れていた。

みんな口を揃えて、「この不況時にサムソナイトを捜し
ただけて、何十万円もいただけるなんて、チョーありが
たいことやないの……」「旅行鞄を見つけたら、300万
円だから、これは滅多にない、おいしい話よ」

とため息交じりに言い合いながら、各持ち場に散って行
った。高木の泊まった部屋がある九階のルームメイク担
当には、松本八枝と坂口夏代が当っていた。

八枝は、神興組からの懸賞金つき「ブルーのサムソナイ
ト捜索依頼状」を見た時、直ぐ息子の高校二年生肇に、
賞金でノートパソコンを買ってやれるかも…!と思った。
前からねだられていたのだが、乏しい生活費のやりくり
では果たせなかった…。

部屋の掃除と、タオルやシャンプー、歯ブラシなどの補
充は二人一組で行う。今日の八枝のパートナー坂口夏代
は、八枝より三つ年下で38歳だ。あの日、高木の部屋を
掃除した時、掃除機をかけていたのは八枝だった。衣装
戸棚の奥にある大きな黒い包みに気がついたが、知らな
い振りして、そっと戸を閉めた。

(黒いゴミ袋で旅行鞄を包むなんて、なんとなくおかし
いわね…)
と感じたが、夏代と一緒に確認するのは避け
たのだ。それに確認するために、(お客さまがかけたカ
バーを勝手に破るわけにはいかんもん…。袋の中を調べ
るんやったら、布テープを丁寧に剥がさなあかんし、ど
うしても破けてしまう…。破くにしても、鞄の底の目立
たないところやないと…)

懸賞金はなんとしても一人占めにしたい。分けるとして
も、自分の好きな相手がいい。夏代は同じ年の夫をガン
で亡くしてから男癖が悪くなり、控え室での開けっぴろ
げな夜の話しには、耳をふさぎたい気持ちになることが
多かった。

あの日、八枝と夏代が担当する八、九階のパートには、
他にも二部屋に、サムソナイトタイプの旅行鞄を所持す
る客がいたが、色が淡い茶色と明るいベージュで、大き
さも半分以下の女性用だったので、可愛い鞄ね…!と語
りあった記憶が鮮やかによみがえってきた。

八枝が、すがる思いで、手配書の神興組の電話番号に電
話したのは11月5日の勤務明けの夕方だった。彼女は、
十万でも、その半分でも、臨時収入が欲しかった。神興
組があんな懸賞金をつけてサムソナイトを捜しているの
は、よほど大事な物が入っていたのに違いない…。

あの翌日、高木がチェックアウトした時も、高木のサム
ソナイトを何気なく見ていたのだ。前日、窓際に置いて
あった時と同じ暗い青だと確認していた。しかし、衣装
戸棚に、黒いゴミ袋に包まれて置いてあった時に、何と
なく怪訝に思ったあの自分の勘を信じていた。

鞄の色が違っても、鞄の情報ならどんなことでも欲しい
のかもしれない、と思い始めていた。八枝が思い切って
神興組に電話したのは、そんな思惑があってのことだっ
た。手配書回覧の翌日、11月5日である。

「はい、私が最後に見たんは、チェックアウトの時で、
暗い青色だったんですけど、ホテルにチェックインされ
た翌日の午前中は、黒いビニール袋に包まれていたんで
す…。ええ、チェックインは、24日の真夜中だったそう
です…。いえ、私はルームメイク担当ですので、フロン
トの人に昨日、確認しました…」

「大きさは同じくらいやけど、暗い青色の大きな鞄を見
たんは、25日の夕方でした。お部屋に伺ったら、窓際に
鞄だけぽつんと置いてあったんですわ…。今、考えると、
色が違うんやったら、午前中、黒いビニール袋で隠して
あったんが、逆におかしい…と思い出したんです」

「お客さんは10月26日にチェックアウトされて、ホテル
からは駅までタクシーを呼んでお発ちになりました…」
と一気にしゃべった。一人息子肇
のためだ。

「えっ、それは…、よう、電話してくれましたなあ。そ
こまで調べてくれはったら、それだけでも懸賞金は50万
以上はずまなあかんくらいです。ぜひ、もっと詳しい話
を聞かせてください。そちらへ伺いましょうか、それと
も、どこかでお会いして、もっと細かいことを…」

八枝の電話を受けたのは、MDチームと日替わりで懸賞
金つき捜索依頼状の電話番をすることになった武闘派の
紺野だった。もっぱら、風俗関係の担当で、まだ30そこ
そこだが、女の扱いには慣れている。紺野は早速、ボス
の首藤に伝えた。

「ほう…、そりゃあ、ようやった。鞄の色は違っても、
確かに、日付があってるしなあ…。MDが電話番してる
時にこういう通報がなくて、お前の時にあるんやから、
われわれにまだツキがあるっちゅうこっちゃ。こりゃあ
大事にせんとなあ……」

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2008年1月25日 (金)

「サムソナイト捜索網広がる…!」

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1997年10月24日、金曜日の夜、学習塾の国語の教師、
高木
明人は、六甲の急坂をウォーキング中、ヘアピンカーブを
猛ス
ピードで降って来た大型の外国車に、危うくぶつけられそう

なりながら、その車が振り落として行った、「とんでもない落し
物」を、震災のボランティア資金になるのでは…と考え、ゲーム
気分で持ち逃げしたために、思ってもいない運命に巻き込まれ
ることになってしまった…。

 落とし主の神興組では、組織内の勢力争いのため、ヘアピン
カーブで落ちるように仕掛け、武闘派の一部を粛清しようと画
策したのだが、頭脳派のトップであり、仕掛け人でもある専務
大山武彦は、肝心の4億7000万円の現金入りサムソナイトが、
すぐ見つからないことに焦りはじめていた。

 3回目のサムソナイト運搬の車を運転していた、元レーサー
の大月を、運搬計画に従事した永沢、兵頭らと共に銃殺してし
まったので、落としたと思われる現場のヘアピンカーブに、ウォ
ーキング中の高木がいたことは知らなかった。このことも、高木
にとっては幸いだった。

 大月は、捜索に向かう前に、武闘派のドン、首藤に電話で
「誰か、人を轢きそうになったので、急ブレーキをかけたため、
その反動で落っこちたんやないか…と思いますが、事務所に
戻ってきて、ルーフキャリアに残っていた紐を調べたら、紐に
ナイフで切ったような跡があるんですわ…。誰かが、わざと切
れるようにしたとしか思えまへん…」と告げていた。

 大山専務は組内だけの捜索では埒が明かないと判断し、
神戸を中心とする、大阪から岡山までのすべてのホテル、旅
館、タクシー会社、駅などに、賞金つきの手配書を配布した。
落としてから三日後の10月28日(火)夕方には、配布が完
了した。

 その写真つき手配書には、サムソナイトを見つけて、現在、
どこにあるか知っている人には、実際に見つかった場合、300
万円、サムソナイトに関する情報を提供した者には、どんな些
細な情報でも、その内容に応じて10万円以上200万円まで
の謝礼を払う…、という内容が書かれていた。

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2008年1月12日 (土)

サムソナイトを手放す…

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翌日曜日。朝食の後で、昨日、買った、チャコールグレー
のジャケットに白いワイシャツを着て、銀色に黒と黄色のネ
クタイを締めた。眼鏡は前日と同じ黒の四角いフレームだ。
ジャージーの上下はショルダーバッグに入れてある。ワイ
シャツの下にセーターを着ているので、ジャケットだけでも
かなり温かい。サムソナイトを拾うまで着ていた自分のジャ
ケット類はすべてスポーツバッグに入れて、自宅に戻した。

空っぽのサムソナイトを転がしながら、フロントに行き、
チェックアウトした。タクシーで「すま駅」まで行き、JRで大
阪に向かう。日曜日の午前10時過ぎの電車は、そこそこ
の混みようで、乗客の人相などをチェックしやすい。高木が
恐怖感を抱くような乗客は、大阪駅に着くまで乗り込んで
こなかった…と思える。

大阪駅からすぐ、関西空港までタクシーに乗る。関空は
開設して1年後だ。空港では、まず団体旅行客で賑わって
いる場所を探し、ある一団が、高木と同じような大型の旅行
鞄を一ヶ所に置いて添乗員の話を聞いていたので、その近
くに行き、さりげなくサムソナイトを隅の方に置き、そのまま
数分、添乗員の話を聞き、周囲の眼を意識しながら、そっと
立ち去った。

 旅行鞄の置き場からかなり離れた所で、自分のサムソナイ
トとその周辺をしばらく監視し、さらに高木の周りで自分に対
して何らかの関心を示すような視線がないか、と気をつけて
いたが、特に何も感じられなかったので、レストラン街に行き、
ゆっくりと時間をかけて遅い昼食をとった。間もなく午後3時
になる。

南海電車の特急で戻り、「なんば」から新大阪まで地下鉄
で帰った。新大阪のビジネスホテルは、日曜日でもかなり混ん
でいた。サムソナイトを手放した気楽さから、月曜日の午前中
に仕事をしようとしている人たちなのか……、などと思い、ホテ
ルの狭い自室でテレビを点けた。

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2008年1月 3日 (木)

「サムソナイトは落ちるように、仕掛けられていた…!」

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 高木がホテルに戻った頃、神興組では、サムソナイト捜索のため
の緊急配備が完了していた。落とされたサムソナイトは組長の私物
だった。

 阪神淡路大震災で、組の本部事務所が潰れたため、新事務所の
建築を基礎からやり直すlことになり、大金庫の中身をすべて、新神
戸の北側にある会長大山猛の屋敷に移動してあった。

 震災の教訓から、新事務所は、会長の長男で専務の、大山武彦
によって設計が進められ、耐震強度はもちろん、IT機能や、人力に
頼らないセキュリティ設備などが増強され、且つ地下のプランニング
ルームの奥に、堅牢な秘密金庫が設けられていた。

 1年半の超スピード建築期間を経て、その新事務所が完成したた
め、たまたま、高木がウォーキングをしている午後9時から11時の
間に、車で15分ほどの距離を、3往復して、組の最重要保管物の
運搬を実行したのだ。一度目と二度目は、組全体を運営する手元
資金で、二回合わせて、移送した金額は軽く20億を超えていたが、
無事に終わった。

 三度目の、会長の個人用の手元資金を運ぶ時に「事故」ってしま
った。本当は、事故ではなく、組内の抗争による仕掛けがあったの
だが……。

 神興組は会長の片腕である「武闘派」の副会長、46歳の首藤豪
と、会長の長男で、イタリアやロシアのマフィア組織にそれぞれ二
年ずつ体験修行に出されていた、38歳の大山武彦専務の「頭脳派」
の二派に分かれており、組内では、事毎に対決色を強めていた。

 今回の運搬計画は、首藤の部下の元若頭、現在の組織名では
常務執行役員、御厨久治の指揮で進められていた。御厨は、運搬
全体の計画を、武闘派の部長、永沢克己と、副部長の兵頭晃に立
てさせていた。会長付きの運転手で、元F1レーサーの大月健吾が
運転手を勤め、二回目までは、何の問題もなく終わっていた……。

 三回目の運搬に際して、「頭脳派」の成瀬浩一が、大山武彦の密
命で、外車の屋根にしっかりと結び付けられていたサムソナイトの紐
に、数ヵ所、三分の二の深さまで鋭いナイフで切れ込みを入れてお
いたのだ。

 紛失したことがわかり、組織内が大騒ぎになり、会長にも伝わった
ため、急遽、捜索に出かけた永沢、兵頭、大月の三人を、公園で、
責任を取らせるため射殺したのである。専務や成瀬は大きな旅行鞄
だから、仕掛けによって落としたとしても、すぐ見つかると高をくくって
いた。

 サムソナイトを運搬する時の紐に対する人為的な工作は、首藤と
御厨にはすぐわかった。それが誰の命令によるものかは、さらに明
らかだった……。

 首藤は、紐に工作をした者がいて、サムソナイトがカーブで落ちた
こと、また落としたことで、運搬を担当していた3人が射殺されたこと
を、一応会長の耳に入れたが、紛失した鞄を探すことが最優先だ、
と怒鳴られてしまった。

 組の大幹部から末端の暴走族、繁華街のジゴロやチンピラに至る
まで、最優先で、銀色の大型サムソナイトを探し出すか、その情報
を集めるように、手配書が回っていた。

 手配書には、サムソナイトのカラー写真が印刷されている。事件の
起きた1997年は、カメラつきケータイの発売以前だったので、ケータ
イメールによる画像の添付はまだできない時代だ。その時間差が、
高木に幸いした。

 落とし主の名前を、新聞の記事によって、神興組だろう……とどう
にか推測できた高木には、組の中で抗争が起きているなどとは知
る由もない。

 しかし、高木にとって、わけがわからないまでも、落とし主側に殺
人事件まで起きてしまっては、のんびりしている時間はない。早速、
次の行動に移った。

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2007年12月15日 (土)

サムソナイト関連の殺人事件か…?

Photo

 




拳銃とナイフが入った2億円8千万円入りのスポーツバッグ一つ
を持ち、セーターの上に、ジャージーの上下を着用し、度のついて
いない黒縁の四角い眼鏡をかけた。すべて、今日、買って来たも
のだ。

ショルダーバッグを肩にかけ、タクシーで「すま駅」まで行き、
JRで三宮の自宅に帰った。

 帰るや否や、またホテルにとって返し、残りのスポーツバッグも
自宅に運ぶ……。すべてが終わり、ようやく「すま駅」に帰った時
は、午後9時を回っていた。

 駅近くの、かなり賑わっている居酒屋で、生ビールを頼み、レバ
ニラ炒めに、大盛りのチャーハンと餃子を頼む……。あれほど強
かった恐怖感と切迫感が徐々に薄れていく。

緩んだ心が、大いに食欲を刺激した。生ビール3杯が効いたのか、
子供と追っかけっこをしているような、ゲーム感覚さえ頭に浮かん
でくる……。

ゆっくりと食事をとりながら、ショルダーバッグに入れておいた今日
の夕刊に、ようやく目を通す余裕ができた。

 Y新聞の社会面に大きく、「S公園で、神興組の幹部の2遺体
発見」と出ていた。

 急に酔いが醒める。遺体が発見されたのは昨夜の、あの公園
だった。何があったのか……?ホテルに置いてある、あのサム
ソナイトに関係があるのだろうか……?

 気晴らしのはずの夕食は、ほんの束の間の安らぎだった。みる
みる顔が青ざめる……。記事によれば、神興組の幹部二人が、
頭部と胸を銃撃された遺体で、今日の未明に、犬を散歩に連れ
ていた女性に発見された。ということで、そのほかの詳細はわか
らない。しかし何となく、この銃撃事件のいき着くところはサムソ
ナイトではないかと思えてくる。

 警察では、暴力団同士の抗争とみているようだが、神興組は、
全国的な大組織だ。他の地区の小さな暴力団が挑める相手では
ない。また、仮に抗争だとしても、深夜の公園に、何の目的で暴
力団の大幹部がいたのか……?大金の入ったサムソナイトを捜
すのが目的なら、納得できるが、麻薬の取引に使うには、目立ち
すぎる場所だ。サムソナイト関連の殺し合いだ、と直感した。

 慌ててホテルに戻った。午後10時半だ。窓際のダークブルーの
サムソナイトは、もう完全に乾いており、触れても、ベタつかない。

フロアスタンドの下にぽつんと立つ大きな旅行鞄は、本来なら恐
怖の源なのに、何となくユーモラスな間抜けな感じがした。そんな
のんきなことを考えている場合じゃないが、「にわかペンキ職人」
の、苦心の塗装は、上々の仕上がりだった。

ジャージーのまま、ベッドに仰向けに横たわり、天井を見つめてい
ると、昨日から24時間しか経っていない、とは思えないほど、いろ
いろなことが一気に降りかかってきた……としみじみ思う。
自ら招いたことだが……。

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2007年12月14日 (金)

まだ、あった。凄い落し物…!

Samsonaite007













翌朝、ホテルのレストランで朝食を充分にとった後、フロント
に行った。カウンターの男は、昨夜の担当者とは代わっている。
「山内」というネームプレートを胸につけていた。サムソナイトの
古い紙幣20万円を補給したため分厚くなった財布を内ポケット
から取り出し、微妙に中身を見せながら2枚の1万円札をカウ
ンターの上に置き、「もう一泊したいのですが、空いていますか?
お釣りは結構ですが……」と頼んだ。

50代半ば過ぎに見える山内は大仰に肯き、「何かご入用なも
のがありましたら、何なりとお申し付けください」と言って、素早
く紙幣をしまった。
昨夜、支払った一泊の料金よりは8000円ほど多い。午前9時だ。

 自室へ戻り、入念にチェックしてから外出し、まず公衆電話で、
翌日の宿泊を、新大阪駅近くにあるビジネスホテルに予約した。

予約する時の名前は、「小笠原武志」にした。これは昨夜から
考えておいた名前だ。住所や電話番号も都内の友人の住所に
合わせた上で、いくつかの数字を入れ替えて暗記しておいた。

 駅の周辺を精力的に歩き回って、昨夜のバスタブで立てた段
取りに沿って、次々に必要な買い物をしていった。午後1時ごろ、
両手に大きな紙袋を2つ提げて、ホテルに戻った。昼食を食べ
ている時間はなかった。というより、追われている焦燥感が強く、
とても食べる気にならなかったのだ。

 留守中に部屋が掃除されていたが、衣装戸棚のサムソナイト
と壁の間に挟んでおいたメモ紙は、そのままだった。さらに、鞄
全体を縛ったビニール紐の結び目に、自分の髪の毛を一本挟
んでおいたのだが、それもそのままの位置にあった。

 ほっとして、今日すべき「3つの大仕事」にとりかかった……。
まず一つ目の、野球の選手が持つような、有名スポーツブラン
ドのロゴが入った、超特大のスポーツバッグを二つ紙袋から取
り出した。二つともまったく同じものだ。そのスポーツバッグに、
サムソナイトの「中身」をすべて詰め替えた。札束以外の物も、
ほぼ重量が同じになるように、スポーツバッグの中を調整しな
がら、中身が動かないように、ガムテープや駅で買ってきた十
数部の新聞紙などでまとめて包装したり、固定したりしながら、
外観がごつごつしないようにきっちりと詰め終えた。

 詰め終わると、やや気が楽になり、空っぽのサムソナイトの
中を丹念に改めてみた……。簡単に取り外せそうな布や金具
などを、ホームセンターで買って来たドライバーやペンチ、鋏を
使って外してみると、これも、うっすらと予想していた通り、蓋の
内側の浅い袋の下から、ガムテープで貼り付けた新聞紙を畳
んだものが出てきた。

新聞1ページの長編をそのまま利用して、巾10センチほどに
畳んである。中を開くと、薬を小分けする時に使うような、5セン
チ角くらいの半透明の小さな袋が一列に並んだものが出てきた。

中に白い粉がパックされているように見える。全部で80パック
もある。直感的に、普通の市販薬ではなく、麻薬ではないかと
思った。もちろん高木は、麻薬を見たことがなく、その味も知ら
ないので、刑事ものの映画でよくやるような、指でなめても意
味がない。確かめる方法はない。

どうしようか……、と迷ったが、自分のショルダーバッグに入れ
替え、取り外したものをすべて元に戻し、2つ目の「大仕事」に
とりかかった。

 砂浜で使う、一坪ほどの広さのビーチマットを、絨毯の敷いて
ある床に広げる。次いで、旅行鞄の把っ手や金具、キャスター
を、駅前の売店で一般紙と共に全種類買ってきたスポーツ紙で
覆い、セロテープで止めた。それが済むと、まずキャスターのつ
いている底面を上にして、立てた。速乾性の、シュプレー式のラ
ッカーで、サムソナイトの塗り替え作業を始めた……。

銀色の上に吹き付けた色は、ダークブルーだ。

 途中、備え付けのポットで湯を沸かし、コーヒーの粉を大量に
入れて、自らも飲み、水とコーヒーの粉を補充しながら、沸騰さ
せ続け、コーヒーの強い匂いを部屋中に充満させた。

 コーヒーとラッカーの匂いで、部屋の中が異様な空気になった
ので、窓を少し開けて空気の入れ替えをしながら、作業を続け、
夕方6時前に、サムソナイト全体の塗り替えが完了した。ダーク
ブルーと、元の、黒に近いくすんだ銀色の区別は、ホテルのスタ
ッフでもなかなかできないだろうと読んだのだ。薄く均一に塗布
したから、乾きも早そうだ。2時間程度で乾く、と説明書には書い
てある。

すべて塗り替えるのに、事前の準備とあわせても2時間はかか
らなかった。

 少し開けた窓際に、ダークブルーのサムソナイトを立てておき、
今日、計画していた3つ目の、最後の大仕事に移る……。

 

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2007年12月12日 (水)

深夜のホテルで,見えない恐怖と戦う…

Photo_2







必死で持ち歩いている時には感じなかった恐怖感が、4億8千
万円近くも入っている……、とわかった深夜になって、旅行鞄の
キャスターのように、グァラグァラと耳障りな音を立てて体中を
走り回りだした。

多少、心の慰めになるのは、昨夜、公衆電話で、ホテルを予約
する時に、「一昨年、神戸のボランティア活動のために三日間、
宿泊をお願いしたことのある東京の『高井』ですが……」と、
本名の高木明人を高井紀彦と変えて頼んだこと。ホテルに着き、
フロントで記帳する時も、「先ほど、急な予約をさせていただいた
高井です……」と言いながら、宿泊代を前払いしたのだが、カウ
ンターの男はにこやかに対応してくれて、偽名を使ったことは、
少しも怪しまれていない、と高木なりに確信を持てたことだ。

サムソナイトを拾ったヘアピンカーブから、焦りに焦って、何とか
自宅とは逆方向に向かうタクシーを拾い、ホテルに向かう車中
で、パニック寸前の状態で思いついたので、よく言われる、偽名
を使う時に、本名で使っている文字を使ってはいけないという
鉄則を破ってしまったのが悔やまれるが、とにかく偽名を使った
こと、とその偽名が押し通せたことに、何となく、安堵感を覚えた。


とりあえず高木は、二つのセカンドバックから新札の630万円を
取り出して、100万ずつの封を切り、ばらばらにしてツィンベッド
の片方のシーツの下に薄く広げて並べた。これは、相手から逃
れるための手段ではなく、見るからに高価な、上質のクロコダイ
ルとオストリッチのセカンドバッグから、裏社会の「酷薄な体質」
が強く匂ったのだ。

そのセカンドバッグを、鞄に入っていたナイフの一本を使って、
無造作に細かく切り刻む……。驚くほどよく切れるので、指を
傷つけないように使うだけで、全身に冷や汗をかくほどだった。

もしかしたら、本当に人の血を吸っているのかもしれない……。
何も語らない、冷徹に青光りする刃を横目に、高木は刻んだ
バッグの小片を、自分の汗まみれの木綿のハンカチに包んで、
きつく結んだ。二つ分を合わせても、大人のこぶし大程度にしか
ならなかったが、包んだまま、ホテルのランドリーバッグに放り
込んで、ショルダーバッグにしまった。

詰め物を安定させるためなのか、鞄と札束の間に10枚以上
も押し込んであった絹の白いマフラーも、ふわっと匂い立つ落
とし主の強いオーデコロンが漂い、思わずぞっとしたが、もう、
賽は投げられたのだ、それも、自分が何の迷いもなく、自分の
意志で投げたんだと思いなおし、その白い布で、拳銃とナイフ
を一つ一つ包んで、ベッドの下に隠した。弾丸の箱は、見ただ
けで、武器とわかるわけではないので、そのまま鞄に戻した。

これから明日までの僅かな時間でも、鞄を他の誰かが開けた
時、凶器になる物が目につかない方がいいと思ったのだ。単な
る予備校の講師、高木が本能的に危険を悟って、パニックにな
るのを辛うじて抑えつつとった行動はそんなものだった……。

恋人を震災で失った、捨て鉢な意識と、死生観が、生きること
より、どう死ぬか、に変わった後遺症がそうさせた、とも言える。

さいわい、旅行鞄の鍵は、スペアキーと共に、札束の上に乗せ
てあったので、一応、鍵を掛けておいた。



夜中の12時過ぎになってしまったが、刻んだセカンドバッグを
ハンカチで包んだものだけをショルダーバッグに入れて、ホテル
の外へ出た。

駅の近くに、窓の灯りがすべて消えたアパートがあった。脇に、
ゴミ置き場があり、いくつかのゴミ容器が並んでいたので、暗が
りの中でハンカチに包んだセカンドバッグを、ハンカチに包んだ
まま落とし込み、ついでに、ビニール紐でくくられて隅の方に積
み上げてあった古い週刊誌や漫画雑誌の束から、週刊誌だけ
を選んで。20冊ほど、結わえてあった紐と共に、ショルダーバッ
グに詰め込んだ。ホテルの近くには、高木が求めていた、深夜
営業のコンビニは見つからなかった。

やむなく、20分ほど歩き回って、ホテルに戻り、シーツの下の新
札を、鞄の札束の下に薄く敷き伸ばして、拳銃とナイフもマフラー
に包んで元の場所に戻して、さらに鞄全体を覆うように、ゴミ置き
場から拾ってきた古い週刊誌を一冊ずつ丁寧に並べて、蓋を
開けた時、すぐ札束が見えないようにした。

鍵を掛けてから、念のため、ゴミ捨て場のビニール紐で鞄全体を
縛っておいた。その大きなバッグを、キャスターを下にして立て、
衣装入れの左横の壁にぴったりと密着させて、立てかけた。

壁と鞄の間に、メモ用紙を一枚挟んでおいた。やっと終わった……。
温めの湯に漬かりながら、明日からの段取りを、今日の反省を
しつつ、じっくりと考える……。

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2007年12月 1日 (土)

札束の入った鞄を持って、逃走…!

Photo

 




 とにかく、札束がぎっしり詰まった鞄の中身をきちんと確認して
おかなければならない。路上ではできない。落ち着いてチェック
できる場所はどこだろう……。

それに、あの「落とし主」が落としたことに気がついて、戻ってこ
ないうちに、この付近から姿を消してしまわなければならない……。
中身から判断して、この付近から、そう遠くない場所に運ぼうとし
ていたのだろう。

軽い気持ちで、警察に届けない、と決めてしまっtたが、急に暗い
不安が胸をよぎる。「落とし主」は凶暴な相手にちがいない。多分、
裏社会の大きな組織ではないか……。だが、夜でも目立つ大き
な旅行鞄を、キャスターを使ってのんびりとコロコロ引きずってい
たら、往来する車を始め、誰かの目に入るだろうし、すぐ連中に
追いつかれてしまう……。じっくり考えている余裕はないのだ。

さいわい、この辺りの道はよく知っている。タクシーの通りそうな
主要道路まで、いかに素早くこの鞄を運ぶか……、が勝負だ、
と思った。大切な人を震災で失い、高木は、一時、仏門に入る
ことまで考えたことがあった。そういう面では、恐いもの知らずと
も言える。

念のため、高木は、自分のショルダーバッグから、薄い色のつ
いた度つきのサングラスを出して、かけた。普段はコンタクトレ
ンズを使っているので、日常的にはかけてないが、予備に、こ
のサングラスと、色のついていない眼鏡の二つは常時、持ち歩
いていた。変装のつもりだ。眼鏡をかけた人間は、そのことが
特徴なので、実際の顔がはっきりと記憶に残りにくいはずだ……。

坂道を、キャスターつきとはいえ、重い鞄を急いで運ぶのは、ス
ポーツの経験がテニス程度しかない高木には、かなり激しい重
労働だ。額からしたたる汗を拭きながら、濃紺のジャケットを脱
ぎ、淡いブルー地に、ピンクと濃紺のチェックが入った厚手のス
ポーツシャツだけになった。腕まくりをして、さらに道を急ぐ……。

公園から駆けるように下って、20分後に、何とかタクシーを拾え
た。もう10時近い。直前に、公衆電話で、東京からボランティアで
通っていた時に、何度か利用したことのある須磨駅近くの観光ホ
テル「須磨浦海浜ホテル」を予約できた。

とりあえず、自分のアパートがある三宮とは、逆方向へ向かって
みたのだ。恐い相手なので、少しの油断もできない。宿泊料を、
前払いしたので、タクシー代と合わせて、高木の財布は空っぽに
なってしまった。

部屋に落ち着いてすぐ、鞄の中身を改める……。
札束は、新札ではないが、全部で4億7千万円入っていた。さらに、
高木を戦かせたのは、札束の周囲に白い布で包まれて、拳銃と
弾丸がセットで3丁、サバイバルナイフが3本も詰められていたこ
とだ。まだ、他にも詰め物はあった。クロコダイルとオストリッチの
セカンドバッグで、この二つにはそれぞれ、新札で250万円と、
380万円入っていた……。合計で、4億7千630万円だ……!

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«胸ドキドキのカバンの中身……!

 
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